FAZER LOGIN第4話 会わせてもらえなかった日
七年前、美月は病院という場所がこれほど怖いところだとは知らなかった。
それまでの彼女にとって病院は、風邪をひいたときに診察を受けたり、祖母の見舞いに行ったりする場所に過ぎなかった。白い廊下も消毒液の匂いも、決して好きではなかったが、人生そのものを変えてしまう場所だと思ったことはない。
けれど、その日の美月は自動ドアをくぐった瞬間から、足元が自分のものではなくなったような感覚に襲われていた。
神代怜司が事故に遭った。
知らせを受けたのは、その日の午後だった。
二十四歳だった怜司は仕事先から戻る途中、乗っていた車が交差点で大型車との事故に巻き込まれた。詳しいことは分からない。ただ、救急搬送され、意識が戻っていないとだけ聞かされた。
電話をしてきたのは怜司本人ではなく、共通の知人だった。
美月は最初、その言葉の意味が理解できなかった。
『怜司が事故に遭った』
事故という言葉は知っている。
『意識がないらしい』
その意味も分かる。
なのに、二つを怜司に結びつけようとすると、頭が拒絶した。
つい数時間前まで彼は生きていて、美月へくだらないメッセージを送ってきていた。
『今日遅くなる。飯食ってていい』
それに美月は、
『言われなくても食べます。自分がいないと私が夕飯も食べない女みたいに言わないで』
と返した。
すると怜司から、
『帰りにプリン買う』
と来た。
美月は、
『話聞いてる?』
と返している。
それが最後だった。
◇
「神代怜司さんのお見舞いなんですけど」
受付でそう告げたとき、美月の声は自分でも驚くほど震えていた。
受付の女性が端末を確認し、困ったように眉を下げる。
「恐れ入りますが、現在、神代様へのご面会はご家族と病院側が許可した方のみに限られております」
「私は……恋人です」
言ってから、自分で情けなくなった。
恋人だから何なのだろう。
法律上は家族ではない。
けれど、美月にとって怜司は家族と同じくらい大切な人だった。
「お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
「相沢美月です。本人に伝えていただければ分かります。あの、意識がないって聞いてるので、今すぐ会話できないのは分かってるんですけど……顔を見るだけでもいいんです。邪魔はしませんから」
受付の女性は申し訳なさそうだった。
「少々お待ちください。確認いたします」
「お願いします」
その数分が、何十分にも感じた。
美月は待合スペースの椅子へ座ることもできず、受付近くに立っていた。
何度もスマートフォンを見る。
怜司へ送ったメッセージには既読がつかない。
『今病院にいるよ』
『会えなくても待ってるから』
『起きたら連絡して』
返事が来ないと分かっているのに、送らずにはいられなかった。
ほどなくして、受付の女性が戻ってきた。
「相沢様、申し訳ありません。本日はご面会いただけないとのことです」
「……今日は?」
「はい。集中治療室で治療中ですので、面会できる方が限られております」
治療中。
その言葉で、美月は少しだけ我に返った。
自分が会いたいかどうかなど、今はどうでもいい。
怜司が生きることが最優先なのだ。
「分かりました。じゃあ、また来ます。あの……容体だけ教えていただくことはできますか?」
「申し訳ありません。患者様の個人情報に関わりますので、ご家族以外の方には詳しくお伝えできません」
「そうですよね。すみません」
美月は頭を下げた。
誰も悪くない。
受付の人も医師も看護師も、仕事をしているだけだ。
それでも、病室までほんの数十メートルかもしれない場所に怜司がいるのに、自分には何一つできないことが悔しかった。
結局、その日は三時間近く病院にいた。
会えるわけでもない。
何か新しい情報がもらえるわけでもない。
それでも帰れなかった。
もし自分が帰った直後に怜司の容体が変わったら。
もし目を覚ましたとき、誰もいなかったら。
そんな考えが次々と浮かんだ。
怜司には家族がいる。
神代家という、自分などとは比べものにならないほど強い家族が。
分かっているのに、美月は自分がそばにいなければいけないような気がしていた。
◇
翌日も、美月は病院へ行った。
その翌日も。
大学を卒業して働き始めたばかりだった美月は、職場へ事情を説明し、可能な限り仕事を調整して通った。
毎回、結果は同じだった。
「申し訳ありません。本日もご面会はできません」
「分かりました」
最初の二日は、そう言って素直に引き下がれた。
三日目になると、少しだけ食い下がった。
「せめて、意識が戻ったかどうかだけでも教えてもらえませんか?」
「申し訳ありません」
「ご家族に、相沢美月が来たって伝えていただくことはできますか?」
「確認してまいります」
それも、返事はなかった。
美月が病院のロビーで待っているあいだ、怜司の母親らしい女性や、スーツ姿の男たちが何度も病棟へ出入りしていた。
神代家の人間だろう。
そのうちの何人かは、美月の顔を知っていた。
けれど声を掛けてくる者はいなかった。
美月も掛けられなかった。
怜司がいつも嫌っていた世界を、そこで初めて実感した。
自分と怜司が二人でいるとき、彼は普通の青年だった。
高級な店より小さな定食屋を好み、洗濯物を畳むのが壊滅的に下手で、寝起きが悪く、コーヒーは砂糖を入れないと飲めない。
けれど、病院を行き交う人々に囲まれた彼は「神代家の跡取り」だった。
美月は、その輪の外にいる。
その事実が、事故そのものとは別の形で胸を締めつけた。
◇
四日目の夕方だった。
美月が病院へ着くと、いつもの受付の女性が少し表情を和らげた。
「相沢さん」
「はい」
「神代様、意識が戻られたそうです」
一瞬、美月は何を言われたのか分からなかった。
「……本当ですか?」
「はい。ただし、まだ安静が必要ですので、ご面会については引き続きご家族側の確認が必要になります」
そのあとの説明はほとんど耳に入らなかった。
生きている。
目を覚ました。
それだけでよかった。
美月は両手で口元を押さえた。
泣くつもりはなかったのに、涙が勝手にこぼれた。
「よかった……本当に、よかった」
受付の女性も小さく笑ってくれた。
「よかったですね」
「はい。すみません、こんなところで」
「いいえ」
美月は何度も目元を拭った。
安心した途端、全身から力が抜けた。
この数日、眠れていなかった。
食事もまともに取れなかった。
それでも、怜司が目を覚ましたのなら全部どうでもよかった。
「会えますか?」
当然、そう聞いた。
「確認してまいります」
「お願いします。ほんの少しでいいんです。顔を見て、起きてくれてありがとうって言えれば、それで帰ります」
今度こそ会える。
美月はそう思っていた。
意識がなかったから会えなかっただけなのだと。
けれど数分後、戻ってきた受付の女性の顔を見ただけで答えが分かった。
「申し訳ありません。本日のご面会は……」
「まだ体調が悪いんですよね?」
「詳しいことは私からは申し上げられません。ただ、ご家族からも、今は面会を控えていただきたいとのことで」
美月は少し考えた。
「じゃあ、手紙だけでも渡せますか?」
「手紙、ですか?」
「はい。今日じゃなくてもいいです。本人が読める状態になったら渡してもらえれば」
美月はバッグから小さなメモ帳を取り出した。
何か書くものを持ってきたわけではない。
ただ、どうしても一言伝えたかった。
病院の隅にある机を借り、震える手で数行だけ書いた。
『怜司へ。
起きたって聞きました。本当によかった。
すごく心配した。
今は会えなくても大丈夫だから、ちゃんと治して。
また来ます。
美月』
書き終えてから読み返し、少し迷った。
本当はもっと書きたい。
怖かった。
会いたい。
目が覚めてくれて嬉しい。
言いたいことはいくらでもある。
けれど入院している人間に、重たい言葉を押しつけたくなかった。
「これ、お願いします」
受付へ渡すと、女性は受け取ってくれた。
「ご家族の方を通して、お渡しできるか確認いたします」
「ありがとうございます」
それだけで、美月は少し救われた気がした。
◇
翌日。
また会えなかった。
さらに翌日。
やはり会えなかった。
美月は少しずつ不安になった。
怜司の体調がまだ悪いのだろうか。
医師から面会を止められているのなら仕方ない。
そう思おうとした。
だが、面会できない理由が少しずつ曖昧になっていった。
「ご家族の意向です」
「安静が必要です」
「本日は難しいです」
言葉は変わっても、結果は同じだった。
ある日、美月はとうとう尋ねた。
「本人は、私が来てることを知ってるんでしょうか?」
受付の女性は困った顔をした。
「申し訳ありません。こちらからは……」
「すみません。困らせたいわけじゃないんです。ただ、毎日来てるのに、一度も本人から返事がないから」
そこまで言って、美月は自分の声が情けなく震えていることに気づいた。
「手紙も、渡ってますか?」
「確認はしておりますが……」
明確な答えではなかった。
そのときだった。
「相沢さん」
後ろから女性の声がした。
振り返る。
怜司の母、神代沙耶が立っていた。
上品な淡い色のスーツを着て、髪も乱れていない。息子が大事故に遭った直後とは思えないほど整って見えたが、よく見ると目元には疲れがにじんでいた。
「沙耶さん……怜司は?」
「少しずつ回復しています。まだしばらく治療は必要ですが、命に別状はないと医師から聞いています」
「よかった……」
美月は本心からそう言った。
「本当に、よかったです。あの、私、何度も来てしまって。ご迷惑だったならすみません。でも一度だけ、怜司に会わせてもらえませんか? 長く話したりしません。顔を見るだけでいいんです」
沙耶はすぐには答えなかった。
その沈黙が、美月には妙に長く感じられた。
「少し、場所を変えましょうか」
沙耶はそう言った。
◇
病院一階のカフェは夕方前で空いていた。
窓際の席に向かい合って座ったものの、美月は飲み物を注文する気にはなれなかった。
沙耶は紅茶を頼んだ。
運ばれてきても、ほとんど口をつけなかった。
「相沢さん。何日も来てくださっていることは聞いています」
「はい」
「息子を心配してくださったことには、感謝しています」
その言い方に、美月は小さな違和感を覚えた。
感謝しています。
まるで、遠い知人へ言うような言葉だった。
「私は……怜司の恋人です」
思わず言った。
沙耶の表情は変わらなかった。
「承知しています」
「だったら、どうして会わせてもらえないんですか?」
美月はできるだけ丁寧に尋ねた。
「まだ治療中だからということなら待ちます。でも、怜司が私に会いたいかどうかだけでも確認してもらえませんか? 私が来てることを知らないなら、伝えてほしいんです」
沙耶は目の前の紅茶へ視線を落とした。
「その必要はありません」
「……どういう意味ですか?」
「怜司は、あなたが来ていることを知っています」
美月の心臓が大きく鳴った。
「じゃあ、会わせてください」
「それでも、会いたくないと言っています」
意味を理解するまで、少し時間がかかった。
「……誰が?」
「怜司です」
「そんなはずありません」
反射的に否定していた。
沙耶が美月を見る。
「あなたが信じたくない気持ちは分かります」
「違います。信じたくないとかじゃなくて、事故の前まで普通だったんです。喧嘩もしてません。別れる話なんて一度もしてない。数時間前までメッセージだってしてたんですよ?」
「事故は、人の考えを変えることがあります」
「でも……」
「怜司も、今回のことで自分の立場を改めて考えたのでしょう」
沙耶は淡々としていた。
「神代家の後継者として、これから背負うものがあります。本人もそれを理解したのだと思います」
「それと私に会わないことが、どう関係するんですか?」
「相沢さん」
沙耶の声は柔らかかった。
だからこそ、美月には残酷に聞こえた。
「あなたはまだ若い。息子も若い。二人とも、この関係がずっと続くと思っていたのでしょう。でも、好きだから一緒にいられるというほど、怜司の立場は簡単ではありません」
「それは怜司本人と話します」
「本人が、話したくないと言っているのです」
美月は黙った。
耳の奥で、自分の脈だけが聞こえる。
「……本当に怜司が言ったんですか?」
「ええ」
「私に会いたくないって?」
「そうです」
「理由は?」
「今は会えば、お互いに感情的になるからでしょう。怜司も、きちんと整理してから伝えたいのだと思います」
「だったら、直接聞きます」
「それを今は望んでいません」
「でも——」
「相沢さん」
沙耶の声が少しだけ強くなった。
怒鳴ったわけではない。
ただ、これ以上踏み込ませないという意思がはっきり伝わった。
「息子は大きな事故から、ようやく回復し始めたところです。今は心身ともに負担をかけたくありません。あなたのお気持ちは分かりますが、どうか理解してください」
理解できなかった。
けれど、美月はその場で怒鳴ることも、病室へ無理に押しかけることもできなかった。
もし本当に怜司本人が会いたくないと言っているのなら、無理に行けば彼を苦しめる。
そんなはずはないと思う。
でも、もし本当だったら。
その「もし」が、美月を動けなくした。
「……手紙は」
ようやく声が出た。
「私、怜司に何通か手紙を預けました。渡ってますか?」
沙耶はほんの一瞬だけ間を置いた。
「ええ。受け取っています」
その言葉で、美月はさらに混乱した。
「それなら、どうして何も返事がないんですか?」
「それも、怜司の意思だと思っていただくしかありません」
美月は膝の上で両手を握りしめた。
爪が掌に食い込む。
痛みがあるほうが、まだ頭が働いた。
「……私は、怜司の口から聞きたいです」
「今は難しいでしょう」
「じゃあ、いつなら会えるんですか?」
沙耶は答えなかった。
その沈黙が答えのように思えた。
◇
それでも、美月は諦めなかった。
翌日も病院へ行った。
沙耶に迷惑だと言われたわけではない。
怜司本人からも、直接何も聞いていない。
ならば待てばいい。
事故の直後で心が混乱しているだけかもしれない。
神代家の問題があるのかもしれない。
美月は、そうやって自分を納得させた。
受付でまた名前を告げる。
「相沢美月です。神代怜司さんへ面会をお願いしたいんですが」
いつもの女性は、今まで以上に困った顔をした。
「相沢さん……申し訳ありません」
「今日も駄目ですか?」
「はい」
「本人がそう言ってるんですか?」
受付の女性は答えなかった。
答えられないのだろう。
美月は無理に聞かなかった。
「じゃあ、これだけ渡してください」
バッグから封筒を取り出した。
昨夜、何度も書き直した手紙だった。
『怜司へ。
会いたくないと聞きました。
もし本当にそう思っているなら、その理由だけ教えてください。
私たちは事故の前まで普通だったと思っています。
私だけがそう思っていたなら、それもちゃんと知りたいです。
一方的に追いかけるつもりはありません。
でも、あなたの言葉をあなたから聞かないまま終わりたくありません。
美月』
封筒には、それ以上何も書かなかった。
受付の女性は申し訳なさそうに受け取った。
「確認いたします」
「お願いします」
美月は頭を下げた。
そして、その日も返事は来なかった。
◇
数日後、美月は病院へ向かう途中で気分が悪くなった。
朝からほとんど何も食べていなかったせいだと思った。
駅のホームで急に吐き気がして、慌ててベンチへ座る。
「……最悪」
事故以来まともに眠っていない。
食生活も滅茶苦茶だった。
体調を崩して当然だ。
美月はそう考え、水を飲んでしばらく休んだ。
そのときは、それ以上深く考えなかった。
まさか自分の体の中に、すでに新しい命が宿っているとは知らなかったからだ。
◇
その日の病院では、沙耶が美月を待っていた。
「相沢さん」
名前を呼ばれた瞬間、美月は期待した。
怜司が会ってくれるのかもしれない。
ようやく返事をくれたのかもしれない。
そんな期待は、沙耶が手にしている白い封筒を見た途端、形を変えた。
「怜司からです」
「……怜司から?」
「ええ」
美月は両手で封筒を受け取った。
薄かった。
中には数枚も入っていない。
「本人が書いたんですか?」
なぜそんなことを聞いたのか、美月自身にも分からなかった。
沙耶は少しも迷わず答えた。
「そうです」
「今、読んでもいいですか?」
「もちろん」
美月はその場で封を開けようとして、指がうまく動かなかった。
紙を破りそうになり、一度深く息を吸う。
封筒の中から便箋を取り出した。
そして最初の一行を読んだところで、体が動かなくなった。
『美月へ。
直接話すべきだとは分かっているが、今は会うつもりはない。』
そこから先を読むのが怖かった。
それでも、美月は読んだ。
最後まで。
もう関係を続けるつもりはないこと。
神代家の人間として生きることを決めたこと。
美月とは一緒にいられないこと。
これ以上、病院へ来たり連絡を取ったりしないでほしいこと。
丁寧な言葉だった。
あまりに丁寧で、冷たかった。
「……これ、本当に怜司が?」
「そうです」
「でも」
美月は便箋から顔を上げた。
「こんな言い方する人じゃない」
沙耶は少し悲しそうな表情を作った。
「相沢さん。人は、別れを告げるときほど普段とは違う言葉を選ぶものです」
「事故に遭う前の日まで、普通だったんですよ。前の日どころか、その日の昼まで普通に連絡してて、プリン買って帰るって言ってて……そんな人が、事故から目を覚ました途端に全部終わりにするなんて、おかしいでしょう」
美月の声が震えた。
「だったら、せめて会わせてください。顔を見て聞きます。私、別れたくないなんて泣いてすがったりしません。本人が本当にそう言うなら受け入れます。でも、一回だけでいいから——」
「怜司は会わないと言っています」
沙耶の声は穏やかだった。
「それが、息子の答えです」
美月は何も言えなくなった。
手の中の便箋がわずかに震えている。
自分の手が震えているのだと気づくまで、少しかかった。
七年間、美月はあの日のことを何度も思い出すことになる。
なぜ、もっと疑わなかったのか。
なぜ、その場で沙耶を問い詰めなかったのか。
なぜ、病室へ押しかけてでも怜司本人に確かめなかったのか。
けれど、二十二歳の美月にはできなかった。
好きな人が大事故に遭った。
何日も眠れなかった。
何度病院へ行っても会えなかった。
本人から返事はない。
母親から、会いたくないと言われた。
そして最後には、怜司の名前で別れを告げる手紙まで渡された。
その状況でなお、「全部誰かの嘘かもしれない」と考えられるほど、美月は強くなかった。
「……分かりました」
そう言うのが精いっぱいだった。
沙耶が何か口にした。
けれど、美月には聞こえなかった。
便箋を封筒へ戻し、バッグへ入れる。
そして頭を下げた。
「今まで、ご迷惑をおかけしました」
自分でも驚くほど丁寧な声が出た。
泣くのはここでは嫌だった。
病院の廊下を歩き、自動ドアを出る。
外は夕暮れだった。
街には人がいて、車が走り、信号が変わり、誰も美月の人生が今終わったことなど知らない。
駅へ向かう途中、コンビニの前を通った。
ガラス越しに、冷蔵棚のプリンが見えた。
怜司が最後に送ってきた言葉を思い出す。
『帰りにプリン買う』
美月はそこで初めて歩けなくなった。
店の脇へ入り、人目を避けるように壁へ背を預けた。
「……ばか」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
怜司へなのか。
自分へなのか。
それとも、数時間前まで幸せだった日の続きを、当たり前に信じていた二人へなのか。
涙は一度出ると止まらなかった。
美月は手の甲で何度も拭ったが、次から次へと溢れてくる。
それでも、その日が人生で一番つらい日になるとは思っていなかった。
数日後。
体調不良が続いた美月は、念のために買った妊娠検査薬を、自宅の小さな洗面所で握りしめていた。
表示された結果を何度見ても変わらない。
陽性だった。
美月はその場に座り込んだ。
怜司とは終わった。
そう思ったばかりだった。
それなのに、彼との間にできた命が、自分の中で生き始めていた。
第27話 生きているよ 「ぼくのお父さんって、生きてる?」 その問いを聞いた瞬間、美月の中で、いくつもの答えが浮かんでは消えた。 まだ話すには早い。 もう少し大きくなってから。 今は知らなくていい。 ママがちゃんと考えるから。 どれも、以前の美月なら口にしていたかもしれない。 陽翔を守るためだと言い聞かせながら。 けれど今、目の前にいる息子は、何も分からない幼児ではない。 自分の過去に興味を持ち、自分と周囲を見比べ、大人たちの言葉を拾い、その意味を考え始めている。 何より陽翔は、死んでいるのかと聞いた。 そこへ嘘を重ねる理由はなかった。「生きてるよ」 美月は、ゆっくり答えた。 陽翔の指が、布団の端をつまんだまま止まる。「……生きてるの?」「うん」「ほんとに?」「本当」 美月は息子の手を握ったまま、もう一度はっきり言った。「陽翔のお父さんは、生きてる」 陽翔はしばらく何も言わなかった。 驚いたようにも見えたし、安心したようにも見えた。 でも六歳の顔の中には、どちらとも言い切れないものがいくつも混じっている。「じゃあ」 陽翔は少し考えてから言った。「どこにいるの?」 美月の胸がきゅっと縮む。「それは……」「遠いところ?」「遠くはないよ」 言ってから、自分で苦笑しそうになった。 物理的には。 少なくとも今は。 けれど、六年間という距離はどう説明すればいいのだろう。「日本にいる?」「いる」「同じ町?」「それは違う」「会ったことある?」 美月の呼吸が一瞬止まった。
第26話 僕のお父さんって、生きてる? 陽翔が父親の話をしたのは、何か特別な出来事があった日ではなかった。 むしろ、美月にとっては拍子抜けするほど普通の木曜日だった。 朝はいつものように目覚ましを二度止め、陽翔に「ママ、あと十分って言ったのに十五分寝てた」と指摘され、慌てて朝食を並べた。新しく買った上履きには陽翔が自分で名前を書き、最後の「翔」だけ少し右上がりになっていた。「これ、読める?」「読めるよ」「変じゃない?」「自分で書いたんだから十分上手」「ママより?」「そこは比べなくていい」「ママの字、急いでると怖いよね」「朝から喧嘩売らないで」 そんなやり取りをして、陽翔を送り出した。 仕事も普段どおりだった。 午前中は三人の子供のリハビリを担当し、昼には冷めた弁当を食べ、午後は記録入力に追われた。怜司からも連絡はなかった。 七年前の調査については、いったん新しい証言を待つことになっている。 だから美月も、意識して考えないようにしていた。 考えたところで、今すぐ答えが出るものではない。 誰が二人を引き離したのか。 どこまで意図的だったのか。 それを知ることは必要だ。 けれど、その答えだけを追い続けていたら、今の生活まで七年前に飲み込まれてしまう。 美月には仕事があり、陽翔がいる。 洗濯物もたまるし、冷蔵庫の牛乳は切れる。 人生は、大きな秘密があっても普通に夕食を要求してくる。 ◇「今日ね、翔太くんのパパ来てた」 夕食の途中、陽翔が唐突に言った。 美月は味噌汁をよそっていた手を止めた。「学校に?」「うん。忘れ物持ってきたんだって」「何を忘れたの?」「図工で使う箱。先生に『また忘れたの?』って言われてた」「陽翔も笑えないでしょう。この前宿題
第25話 誰かが、私たちを別れさせた 翌日の午後、怜司は七年前に神代家秘書室へ勤務していた女性と会っていた。 場所は本社ではない。 相手が神代家との関係を周囲に知られたくないと希望したため、都心から少し離れたホテルのラウンジを使った。怜司も秘書を同席させず、調査担当者だけを一人連れている。 向かいに座る女性は六十代半ばだった。 当時は沙耶の個人秘書を兼ね、神代家の私的な予定や連絡を扱う部署にいたという。「突然お呼び立てして申し訳ありません」 怜司が頭を下げると、女性は緊張した面持ちで首を振った。「いえ。ただ、七年も前のことですから、どこまで正確にお答えできるかは……」「覚えていないことは、覚えていないと言ってください。推測で埋めてもらう必要はありません」「分かりました」 怜司はテーブルの上へ一枚の資料を置いた。 当時の携帯電話契約に関する記録だった。「事故で俺の端末が破損したあと、着信制限と一部転送設定が行われています。申請者として、あなたの名前が残っていました」 女性は眼鏡を掛け直し、資料へ目を落とした。 しばらく見つめてから、ゆっくり頷く。「私の字ですね」「覚えていますか」「端末の手配をしたこと自体は覚えています。怜司様は事故直後、意識が戻っても体調が安定しておられませんでしたから、ご家族や病院と相談して、外部からの連絡を一度整理する必要があると……」「外部からの連絡を整理する、というのは?」「仕事上の電話、取材、親族からの連絡、それから……私的な連絡です」 怜司は表情を変えなかった。「特定の相手からの電話を止めるよう指示された記憶はありますか」 女性はすぐには答えなかった。 その沈黙だけで、怜司の胸の奥が冷えていく。「あります」 ようやく女性が言った。
第24話 その手紙を、俺は読んでいない 七年前の郵便物について調べ始めてから三日後、怜司のもとへ最初の報告が届いた。 朝八時半。 KAMISHIRO MEDICAL本社の執務室にはまだ人の出入りが少なく、窓の向こうでは曇った空の下を車の列が流れている。 怜司はコーヒーへ手をつける前に、調査担当者から送られてきた資料を開いた。 七年前。 交通事故で入院していた期間。 当時、怜司が住んでいたマンションの郵便物は、一定期間、本人ではなく神代家側の管理担当者が回収していた。 そこまでは予想していた。 事故直後は意識がなく、その後もしばらく入院が続いた。公共料金、クレジットカード、会社関連の書類、契約関係など、放置できない郵便物があったためだ。 問題は、その先だった。『回収担当者が郵便物を神代家資産管理室へ運搬。その後、業務・契約・金融関係と私信に分類し、必要書類のみ病院または秘書経由で本人へ届けていたとみられます』 怜司は文章を読み返した。「私信に分類……」 声に出す。 次の資料へ進む。 当時の簡易業務マニュアルの写し。 そこには、入院中の怜司宛て郵便物について、『本人への負担を避けるため、至急性・重要性を家族側担当者が判断する』 と記されていた。 怜司の眉が寄る。 本人への負担。 随分と便利な言葉だ。 見せるかどうかを、本人ではない人間が決められる。 ページをめくる。 当時の郵便物管理担当者は二名。 一人はすでに退職。 もう一人は現在も神代家の関連会社に籍がある。 調査担当者からの補足が続く。『当時の回収担当者の一人に、本人の同意を得たうえで聞き取りを実施しました。個々の郵便物について記憶はないとのことですが、「女性名義の私信」については、資産管理室へ渡した後、神代家秘書室側で確認し
第23話 七年前に送った手紙 日曜日の朝、美月は押し入れの奥から古い段ボール箱を引っぱり出した。 衣替えをするつもりだった。 それだけだったはずなのに、冬物のニットを探している途中で、奥に押し込んだまま何年も触れていない箱が目に入った。 ふたの端が少し潰れている。 大学時代のノートや昔の写真、使わなくなった小物をまとめて入れた箱だった。「ママ、何してるの?」 背後から陽翔が覗き込む。「冬の服出してたら、昔のもの見つけたの」「宝箱?」「そんな立派なものじゃないよ」「開けていい?」「待って。変なもの入ってるかもしれないから」「変なものって?」「大人になると、昔の自分を見るのがちょっと恥ずかしくなるものがあるの」「写真?」「写真も」「見たい」「見せません」「何で?」「ママにも人権があります」「ぼくもあるよ」「知ってます」 陽翔は納得していない顔をしたが、今日は友達と遊ぶ約束がある。 玄関からインターホンが鳴ると、興味はあっさりそちらへ移った。「来た!」「上着持って。あと四時半には帰ってくるのよ」「分かってる!」「お菓子食べすぎない」「分かってる!」「道路飛び出さない!」「それも分かってる!」 返事だけは勢いがいい。 美月は玄関まで送り、友人の母親へ頭を下げた。「いつもすみません」「全然。うちの子が陽翔くん来るの楽しみにしてるから」「四時半には迎えに行きます」「ゆっくりでいいよ」「ありがとうございます」 陽翔が振り返る。「ママ、宝箱勝手に全部見ないでね」「ママの箱なんだけど」「面白いのあったら残しておいて」
第22話 あなたは、本当に知らなかったんだね 公園で三人そろって走った翌日、美月はひどい筋肉痛になった。 朝、目覚ましを止めようと布団から起き上がった瞬間、太腿の裏に鈍い痛みが走る。「……痛っ」 思わず声が漏れた。 隣の部屋から、すぐに陽翔が顔を出す。「ママ、どうしたの?」「何でもない。ちょっと足が」「昨日走ったから?」「……たぶん」 陽翔の顔が、みるみる楽しそうになる。「ママ、弱い」「誰のせいで走ったと思ってるの」「でもママ、本気だったじゃん」「『負けるの怖いんでしょ』なんて言われたら、本気にもなるでしょう」「大人げない」「その言葉、誰から覚えたんだっけ?」「ママ」「教えるんじゃなかった」 陽翔は笑いながら、自分の足を何度か屈伸させた。「ぼく全然痛くないよ」「六歳と二十九歳を比べないで」「怜司さんも痛いかな」「さあ。あの人は一応運動してそうだし」「聞いてみようよ」「朝からそんなことで連絡しないの」「何で?」「大人には仕事があるからです」「ママも仕事あるじゃん」「だから今から準備するの」 そう言いながら立ち上がろうとして、また脚が痛んだ。 陽翔が吹き出す。「やっぱり痛いんじゃん」「笑わないで」 朝からこんな調子では、一日が長そうだった。 ◇ ところが、出勤して一時間ほどすると、今度はスマートフォンが震えた。 休憩時間に画面を見る。 怜司からだった。『昨日、走ったせいで少し脚が痛い』 美月は思わず笑った。 陽翔の言葉を思い出す。『私も』







